稲垣稔次郎について

稲垣稔次郎は明治35年3月3日、京都市下京区麩屋町綾小路下る俵屋町に父、稲垣竹次郎、母、しげの次男として生まれました。父は岸竹堂門下の日本画家で人気がありましたが、一方で漆器や金工品の図案家としても活躍していました。兄は25歳で夭折しました日本画家の稲垣仲静(本名 廣太郎)です。

幼少の頃から、芸術家である父の背中を見て育った仲の良い兄弟は自ずと芸術の道に進みます。 大正11年3月に京都市美術工芸学校を卒業した稔次郎は、東京三越本店図案部に就職します。 しかし父と兄の急逝により帰京し、松坂屋京都支店図案部に勤務しました。 この松坂屋で捺染友禅の図案家として仕事をするとともに、京都西陣などの染色工場を訪れ独学で研究を重ねました。
昭和6年松坂屋京都支店を退職し、染色作家として独立しましたが納得のゆく作品ができるまでは作品の発表は控えていました。
昭和15年、第15回国画会展に<西瓜の図>を出品し、国画会賞を受賞しました。その後、稔次郎は多くの賞を受賞し自身の地位を確立していきます。

さて、稔次郎の素質を見出したのは陶芸家の富本憲吉でした。 また、生涯の盟友となる小合友之助らと結成した「母由良荘」に参加するなど芸術活動の幅を広げます。 昭和21年<松の図屏風>が第1回日展で特選となり、翌年富本、小合らと新匠美術工芸会を結成し終生、富本とともに行動をともにします。

昭和24年京都市美術大学講師となり後に教授となりました。 その後も多くの展覧会で受賞を重ね昭和37年3月、型絵染により重要無形文化財 (人間国宝)の認定を受けました。

昭和38年6月10日京都府立医科大学にて逝去しました。終生師と仰いだ富本先生の死後わずか2日後でした。

より、詳細な内容につきましては、図録、書籍に記載されております。